「チューしていいですか」
「(なに言ってんの!)い、いやです」


とは言うものの、この状況はそんなことされてもおかしくない、状況で。 千石の息づかいは聞こえてくるし、私のも同じように千石に聞かれていたらと考えると小さな息しかできなくて。 でも体は大量の酸素を欲している。なぜなら、心臓がとても速く波打っているから(こいつのせいで)











いつもと同じ帰り道。駅に着くと学校帰りの時間帯にしてはラッシュ時並に混雑していて、どうやら電車が止まっているらしかった。 駅のホームはイライラしている大人たちと、私と同じように足止めを喰らっている山吹の生徒でごった返していて。 中には諦めてバスで帰ったりする友達や、歩いて帰るとかいう強者もいたけれど、私はおとなしく電車を待つことにした。

空の色が変わってきたころ、やっと電車は動き始めたけれど、 急ぐ人たちが我先にと犇めき合っていて。それに割り込んでいく度胸も体力もこれっぽっちもなかったので、 人が少なくなるまで待つのも同じことかと思い、あともう少し辛抱することにした。 そう決めた途端に階段から見えてきたのは、目の前に広がる空と同じような色の頭をしたクラスメイト。


「あーれー、ちゃん」
「千石」
「電車止まってたみたいだねーすげー人。ていうかちゃんて帰宅部だった、よね」
「うん、たぶんテニス部が部活やってる間じゅう電車待ってたよ」
「あちゃー。災難だったねえ」


テニス部の練習が始まって終わるまで私はここでぼーっとしてたってわけか。 そこへまた電車がやってくる。前の駅からの人ですでに満員だってのに、この駅からも乗り込むので あっという間に溢れかえる。ドアが閉まることを告げるアナウンスが響いたけれど、 動こうとしない私に千石は問いかけた。


ちゃん乗らないの?」
「え、混んでるし」
「いいじゃん。帰ろうよ」


笑って私の手を取り、走り込む。一瞬のことだったので抵抗もないままに足は動いた。 まず千石が電車内に乗り込み、そして私を引き寄せる。ぎゅう、と人と人の間に私が入ったところでドアが閉まった。 それはそれはなんと鮮やかな。 がたんごとん、と電車が小さく揺れ始めても手を離さない。 いとも簡単に手をつないでみせて、さりげなく笑って。さすがは千石、とでも言うべきか。 称賛のしるしに私も笑い返した。

それなりに私たちは他愛のない話をする仲で、もちろん千石が女の子とよく遊んでいることだって前々から知っていた。 だけど私がそんな女の子たちと同じような対象に加わることはなくて。 いつも教室で千石がテニス部の友達と騒いだ話とか、女の子にバカやったりしてしまった話を聞いて、笑い合うような関係。 そして放課後は教室で手を振って別れる。 だから学校の外で二人になるのは、実は初めてかもしれない。いつもいつも、こんなふうに手を繋いで女の子を落としてるのかな。 だとしたら私にこんなことするのは間違ってるよ。 じっと千石の顔を見つめて訴えると、視線に気付いたのかだけど訴えには気付かないのか、 またすぐに笑ってはにかんで、乗れてラッキーだったね、と決まり文句を口にする。


「ま、すごい人だけど」
「そーだね、きゃっ」
「だいじょぶ?あ、ちゃんこっちおいでよ。俺、そっち立つから」


ぐい、と手を引き寄せられ、端の隙間に移動させてもらう。 私も嫌ならこの手を振りほどいてしまえばいい。だけどそれができないのは、私がひそかに千石のことが好きだから。 手をつないでもらえたのが、うれしいから。嫌なわけ、ない。 こんなこと初めてで。今まで一緒にいた時間は長かったけれど、手をつないで、一緒に走って、 満員電車のなかで人混みから守るように立っていてくれるなんて、そんなこと、初めてで。

ここは満員電車。小さく揺れるたびに人混みも揺れて、手は緩くつながれたままで、 目の前の千石の肩に私の顔はぶつかる。ああなんて近いんだろう。焦りの色を隠すため、私は意識的にうつむく。 頭の先から、千石の優しい声がした。


「あーちゃん、今の痛かった?」
「ちがうの、だいじょうぶ」
「ごめんね」
「しょうがないじゃん、揺れるし」


必死の思いで言葉を紡いで、でも気持ちは悟られないように。 ああだけどずっと下を向いているのも感じ悪いなあ。大丈夫、今までずっとばれなかったしと自分を励まして、 もう一度千石の顔を見ると、あれ、なんだか。真剣でいて凛々しいような、そこにはいつもと違う千石がいた。


「ちがうよ。手、つないだこと。嫌だった?」


千石はよく女の子の話をする。だけどその女の子の名前は早いローテーションで入れ替わり立ち替わる。 そんな女の子の輪には入りたくなかった。千石と付き合えたところで、すぐに終わってしまうような関係にはなりたくなどない。 いっそこのままで。なんて、 よく有りがちで、おまけにくだらない、幼稚染みたプライドが邪魔をして、私はこのクラスメイトの地位を 必死に保っていた。保っていたのに。 千石の言葉で顔がカッと赤くなるのがわかった。ああ保っていられなくなる。 同時に電車がカーブで大きく揺れた。バランスを崩して、思わず強く握ってしまったのは、もちろん千石の手。


「あっ。この反応は嫌じゃなかったって受け取ってもいいのかなー」
「ば!ばかじゃないの」


そういえば私はいつも千石が女の子と別れるたびに、バカじゃないの、と言ってのけた。 それは本当に千石がいろんな意味でバカだと思うからで。 一人の女の子とどうしてそんなに続かないなんて(バカじゃないの)とか、 もうちょっと続く努力しなよ(バカじゃないの)とか。 それから、私が千石のこと好きなの気付かないくせに(バカじゃないの)とか。 でも気付いてもらいたくないくせにそんなこと思っちゃってる私が いちばん(バカじゃないの)、とそのたびに思っていた。のに。


「いやいやバカじゃないって、俺」
「なによそれ」
「へへ。だって俺、気付いてたし」


絡まった指先が熱い。さっきより強く握られているのは気のせい? 何に気付かれていたかなんてもう明白で。今までの私っていったい何だったの。恥ずかしい。 でもそんなこと考える暇もなく、電車は揺れるがまま、千石は為すがまま、揺れるのをいいことに詰め寄って。 ねえ、息が、かかるよ。


「だから、ちゃん」
「…はい」
ちゃんもいーかげん気付きなさい」
「(え?!)」
「俺どんだけ我慢してたと思ってんの。てゆうか、もう」
「な、なに」

「チューしていいですか」

「(なに言ってんの!)い、いやです」


いきなり何を言い出すのやら。 ここは電車の中で、しかも混んでるからまわりにたくさん人がいて、そんなところで何しようとしてるの! そればっかりは嫌に決まってる。でもさっきの言ったこと、なに?私もいいかげん気付きなさいって、それは、 私に都合よく解釈してもいいの?同じ気持ちだったって思ってもいいの? そんなふうに考えだしたら、もう千石の目から逃げられなくて、息ができなくなりそうで、


「何が嫌なの」
「なにって、だって、こんなところで」
ちゃん、それは嫌って言うんじゃなくて、駄目って言うんだよ」
「だ、だめ?」
「うんそう。この場所でするのが駄目なことなだけで、ちゃんはキスすること嫌じゃないでしょ」


そう言われてみれば一理ある。というよりも認めたくないだけでそれが正解であって、本当に千石はバカじゃなかったことに気付かされた。 でもそんなこと平気で言ってのけるところあたりはやっぱり何も考えてないのかなと思ったけど、 繋がれた指が少しだけ震えているのが、分かった。もしかしたらこれはただ電車が揺れているだけなのかな。 そうなのかな。真相の分からないまま千石の指は私の指を離れ、今度は私の髪に絡ませた。


「この状態がずっと続くのに、おあずけなんて、ムリだよ」


嫌が駄目に変わる前に。気持ちは許したことになる前に。 次にその手は一体どこへ行く。













20080513 ( どこへ行くことを期待している? )